2018.5.31[Thu]
『コギト・エルゴ・スム』

この画像は
東日本大震災の
約1カ月前に開催した個展…

『アルベルチーヌの置き手紙に隠された秘籥の嘘』の
会場の景色である…

久方ぶりに懐かしく
さまざまに想い巡らせた…

マルセル・プルーストが
またしても私の脳裏に蘇る…

此処で感ずることは
制作に伴ふものは
己の真理を発見するために
あらゆるものを
疑ふということだ

この方法的懐疑のゆく末に残った
自己の意識だけ

つまり己の意識が
今疑っているといふ事実
この疑ふといふこと

確かなのは
コギト・エルゴ・スム
自己の意識だけなのだ

心身は
並行していないのだから

2018.5.30[Wed]
『善いカルマ』

これまで
心の中に蓄えてきた

善いカルマの
エネルギーを
唱えていれば

どんな時でも
心は安心していられるのだ

そふ
心に言い聞かせること
言い聞かせること

2018.5.29[Tue]
『失われた時』

今日は一日中
家に閉じ籠り
リトグラフの
制作に没頭する

14点の作品が完成

それほどであったから
私の精神は
各々の作品を
じっくりと検証することが
非常に難しい

良し悪しも
解らぬが

そんなことは
どうでも良い

兎も角
ひとつでも多くの
発見をするために
足掻くだけである

失われた時を
やはり私は
探し求めている

マルセル・プルーストが
すぐ側にいる気がした

2018.5.28[Mon]
『コチニル色の騒めき』

もし私が
多くの小さな流れであったのならば

今此処における
最も厳粛なる歌声が

コチニル色の騒めきをもって
立ち現れるであろう

扉は開かれているのに
閉じているよふでもあり
私はノックするだけ

誰かいますか

近づいてくる足音は
遁走してゆくし
薔薇は朽ちてゆく

あなたに見える景色は
額の中にのみ宿り

裏をかいて
娶るよふな
聖なる一撃

それは
剣と衣

滅びる権利は
とても気だるく

色褪せつつ
よく見えますわ

わずかな心は
刺繍糸のよふに
合間の経験の最中にあり

おだやかな
虹彩のもとに
輝くことでしょう

別々の抽斗を
順番通りに
仕舞いましょうね

あの針は
レコード盤の上にありますし

それが眠りにつくことは
誰もが知っているのですから

胸が張り裂けても
むしろ堂守が
微笑んでくれているのですから

だから
心は穏やかなのです

コチニル色の騒めきは
そふいった景色なのです

2018.5.27[Sun]
『悪徳の栄え』

己の為に張り切るもの
己を揺さぶってくれるもの

それは
優雅女神(グラチアエ)

頭の中で想像する

かけがえのない
悪徳の栄え

2018.5.26[Sat]
『憂悶の情』

日々
悪戦苦闘
敵は何処に存在しているか
いや何処にもあらず
気づくのは
実は時の流れといふ
目に見えぬ大敵であったのだ
憂悶の情
もののあわれ
そのものである
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馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の赦す所
楽しまずして是を如何にせん
(伊達政宗)

2018.5.25[Fri]
『喜びに満ちた橋』

己とは違ふ方法論で生き
感じている人の存在を喜ぶべきである
己と似た性質の者を愛するのではなく
己と対立して生きている人との
喜びに満ちた橋を
架けることが重要なのである
対立や矛盾を超越し
反発することなく
喜びに満ちた精神を持つべきなのだ

2018.5.24[Thu]
『命とは』

私の中で…
もはや…

時空は
狂い始めている…

命とは
一体何なのであろうか…

私は
目の前で女性が…

電車に轢かれたのを
観て終った…

自らの人生のピリオドのために
線路へ飛び降りた女性…

電車の急ブレーキ音…
周囲の悲鳴…

警察や救急隊や消防隊が
駆け付ける
騒然とした景色…

そして
運ばれてゆく遺体袋…

此れを
私はどのように
了承したら良いのだろう…

只々
悲しみで
いっぱいである…



摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五
蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不
異色色即是空空即是色受想行識亦復如
是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
不増不減是故空中無色無受想行識無眼
耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至
無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死
亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無
所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無
罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢
想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜
多是大神咒是大明咒是無上咒是無等等
咒能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜
多咒即説咒曰
掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦
菩提薩婆訶 般若心経


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https://www.youtube.com/watch?v=RqlItqLTseQ
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2018.5.23[Wed]
『啓示を与えてくれる風景』

この作品は
ポリエステル・フィルムの表面に
コーティングを施した構造を持つ
リトグラフ技法によるものである

油絵の具と水との
相互影響によって
独特の性質が現れる

コンセプチュアルな距離感と
直接性を同時に得られる

畢竟
シュールレアリスムの概念とも
調和するもので

プリントされた紙面も
あるいは
版面も同時に
作品となり得るものである

私の精神に
より多くの啓示を
与えてくれる風景なのだ

2018.5.22[Tue]
『調教』

己の心を奴隷とすることなかれ
常に主であるよふに

其処にあるものこそが
最も重要な拠り所である

己の心を
調教するのだ
丁寧に
丁寧に

2018.5.21[Mon]
『共闘』

己自身を常に見張り
其の先に向かって
精神を解体し乍ら
闘うすることをやめない
心の澄んだ人こそ
共に一緒にいるべき戦友なり

2018.5.20[Sun]
『攻略出来ぬ領域』

物質は空間の連続性にある
畢竟、分割可能である

知覚(生活)は欲求と充足の
二元性(非連続=分割不可)である

其の理解を知らぬ限り
攻略出来ぬ領域といふものが

この世には存在するのだ

2018.5.19[Sat]
『マルジナリア=☝』

文章を読み解くにあたり

その行間の中にいかに多くの
『マルジナリア=☝』を見付けるか

そして其の多くの『マルジナリア=☝』の中から
最も重要な『マルジナリア=☝』を見定めるかを
追求するのが制作といふものである

其処にあるものを見過ごして
営みは決して成立しないのである

メビウスのアルザック・ラプソディーには
その精神が至る所に存在する

2018.5.18[Fri]
『ベアトリーチェ・チェンチ』

誠に見よ、方今我国の洋学者流、
其前年は悉皆漢書生ならざるはなし、
悉皆神仏者ならざるはなし。
封建の士族に非ざれば、封建の民なり。
恰も一身にして二生を経るが如く
一人にして両身あるが如し。
二生相比し両身相較し、
其全生前身に得たるものを以って
之を今生今身に得たる西洋に照らして、
其形影の互に反射するを見ば、
果たして何の観を為す可きや。
其議論必ず確実ならざるを得ざるなり。

福沢諭吉のこの言葉には
実験の精神が存在している

私はこの一文を読むなり
脈絡なく
ベアトリーチェ・チェンチのことが
脳裏をよぎる

大変に
不思議なことである。

2018.5.17[Thu]
『メランコリアの袂』

心よ

もし仮にわたしが
此処に存在していることを
忘れて終うよふであれば

どふか
呼び止めて欲しい

種子が
私の未知の岸辺に並んで

この肉体の束の間の悲劇に
森林のよふに
雪崩込んでいるから

天使の性質は
メランコリアの袂

ふっと黙って
ゆったりと紡がれる
平穏な波

近くには
庭の霧がたちこめて
わたしをとりまいている

何処が前で
何処が後ろなの

それは
蒼く透明で

雲々の求め続けた
花の数だけ
あったのでした

2018.5.16[Wed]
『蜜蜂』

心がこわばったときには
深淵な来るべき午後にある
原子のネジを
巻くのが良いでしょう
狭い領域から
外に出ることです
不在証明はなおも
眠り続けます
葉っぱには茎がありません
どうして光が見えないのだろう
それはちょうど
永遠の眠りを疑ふほど
溺れかかった
傍観の中にあるのです
そふなのです
蜜蜂は翔び立つことが
できないのです
だから
みんなをあの夕陽に
連れてゆくのです
この大地には
鉄格子があるのです
それはひとつも
鎮痛剤が効かぬ
神の憐れみなのであります

2018.5.15[Tue]
『レベランス』

ランプの火を点じると
ふと私の眼の前に寄ってくる

幾日も大切に隠された
泥棒にも盗めない
砂漠のよふなレベランス

それは茎の上で
無力となって

それはまるで
見世物のよふでもあり

素敵な芝居小屋の
機敏な亀裂の
ふざけだす夕闇の扉を
ノックする不合理の極みのよふに

もっと気を確かにね
もしどこかで見付かるのなら

頭上には真っ青な空があり
大粒の雨が降ることでしょう

宇宙はきっと
沈むたびに

旅人の手向けた花束が
やさしく厳かに咲くのを
目の当たりにすることでしょう

2018.5.14[Mon]
『心の鍵盤』

この絵は
私がコレクション(所蔵)する
幾多のアーティストのうちの
ひとり

尾崎豊
(1965年11月29日-1992年4月25日)の
絵画作品(部分)である

人はみな
心の中にそれぞれの
『鍵盤』を持っているのだ

どんな音色を奏でるかは
各人によって
異なるであろう

肉体を超越して
精神の領域に
それは存在している

感覚の訓練が
知性を分解した上で

その概略的な下絵
運動図式を組み立て

最後の仕上げとして
実際に感得された筋肉感覚が
その図式に色付けしていく

身体の持つ
この自動的傾向は
知性の最初の現れでもあるのだ

2018.5.13[Sun]
『深い孤独の聖母』

生が恵みを受けるとき
アームチェアは再生する

深い孤独の聖母

まるで神の
恩寵のよふに

蒼い海も
空も

永遠に輝かん

2018.5.12[Sat]
『穏やかに』

心を穏やかに

何事にも
心穏やかに

私のこの気持ちが

世界を巡礼するみたいに
渡り歩けることを
夢見て

人生はずっしりと
重たいものだから

2018.5.9[Wed]
『言葉』

本日は…
小林秀雄:著
『言葉』より一部抜粋
(以下)


自然の情は不安定な危険な無秩序なものだ。
これをととのえるのが歌である。
だが、言葉というもの自体に既にその働きがあるではないか。
悲しみに対し、これをととのえようと、
肉体が涙を求めるように、
悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉を求める。
心乱れては歌はよめぬ。
歌は妄念をしずめるものだ。
だが、考えてみよ、
諸君は心によって心をしずめる事が出来るか、
と宣長は問う。
言葉という形の手がかりを求めずしては、
これはかなわぬ事である。
悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、
歌とは言えまい。
寧ろ一種の動作であるが、
悲しみに切実になれば、
この動作には、おのずから抑揚がつき、
拍子がつくであろう。
これが歌の調べの発生である、
と宣長は考えている。
この考えからすると、
彼の歌論で好んで使われている、
「おのづから」という言葉は、
自然の動きにつかず離れず、
これを純化するという意味合いの自然となって来る。
その点で、彼の歌論には、
アリストテレスの詩学にある
カタルシスの考えと大変よく似た考えがあると言える。

2018.5.8[Tue]
『宇宙』

正直なところ

何を描けば良いのか
迷いに迷う日々は
多々あるのだ

迷いっぱなしといっても
過言ではない

そんな時は
だからこそ

リアルな時としての
瞬間に立ち返る必要があるのだ

この作品は
私にとっての

宇宙ガスの
有り様である

トルストイの『文読む月日』
無限に小さな現在

時間というものの
問題が脳裏をよぎる

2018.5.4[Fri]
『行動』

人はみな
己を
外側から
眺め乍ら
行動することが
できないだけのことさ

2018.5.2[Wed]
『それでも時は』

スクリーンの切れ端を
歩き続けている

其処は
木々の影の突き当たりの景色が
無数のヴァリエーションに広がり染みて

やがて己の影と混じり合う
緩やかな放物線を描き乍ら

謎のままだと日記に記す

記憶の深潭のさなかでは
影の闇音は源泉に向かって
ラリマー燐光のごとく蒼っぽく煌めく

画面を変える

水平線の割れ目のような祝杯から
螺旋状のシステムは落下している
まるで真珠のよふに

コローニアの
月日のあれこれ
薔薇の皇帝

時の流れとともに
蜃気楼の果てから

絹の巨大な織物を纏った
大勢の騎手達が
駆けてくる

爛々と
歌声を響かせ乍ら

馬の背に連なる
白熱球の幾千もの軌道はやがて雲となり
穏やかで安らかに憩える住み処に辿り着く

人生では
多くのことが変化をし
いかに所在無いかを知る

ガラスのよふな眼差しで眺める
永遠なる神秘

それでも時は
至福の水で満ちてゆく

2018.5.1[Tue]
『希望』

希望を
持ち続けることができるのは

人の意志の強さだけ



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